シモン・ペテロと兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブと兄弟ヨハネの4人の使徒とイエス様の出会い。おそらくすでに知り合いだったと思われるので弟子として従い始めた時とでも言おうか。その場面がこのガリラヤ湖での出来事です。
これはマタイの福音書4:18~ガリラヤ湖のほとりで海に網を投じるペテロとアンデレをイエス様が見て「わたしについて来なさい、人をとる漁師としよう。」とお声をかけられるシーン。マルコの福音書1:16でもほぼ同じことが書かれている。
しかし
ルカの福音書では5:11~ストーリーは同じなんだけれどもここではゲネサレ湖と書かれている。
どっちなんだい
と思ってしまった私はすぐ検索(Wikipedia)。
なんだ、同じか。
聖書だけだとこういう解説ってないから調べるか教わるかしないとさすがにわからない。なんだけど毎回つくずく便利な時代だと思う。
この湖は、地形が深い谷の底にあるから、時々強風が吹いて波が荒れた。当時の漁師さんの船、全長8mくらいの木造だというから、すごく揺れただろうな。
ここでの嵐のシーン、有名ですよね。弟子たちが「船が沈みそうだ」と恐れていたのにイエス様は寝ていたと。そして「せんせえー!私たちが死んでもいいんですかあー」と弟子たちがイエス様を起こすんですね。
「なんで怖がる。信仰の薄い(少ない)者たち。」と言いながら起きてくださって、風と海をお叱りになった。するとなぎになった。
これ聖書を知らない人にはどう見えるのかな。
これ教会でよく語られるのは、自然界でさえイエス様には従うのだから何かの試練に出会っても恐れないで信じていましょう、というもの。
自然界だけじゃなく、いろいろ悩みとか問題ってありますよね。でもすべてを神様が握っておられるということへの信仰、小さい存在の私をも見逃されるはずがない神様はパーフェクト的な信仰、これがあれば神様は助けてくださるという教えです。すべてをお造りになったのが神様なのですから。その神様はイエス様なのです。
ここからは私のイメージですが
自分を信じ切ってゆだねている幼い子供から、親は目を離しません。私にはそんな感じです。(人間は目を離してしまうことがあるけど神様は眠ったり、忙しすぎたりしないんです)
こういうことからわかるために、人間には家族があるのだと思ってます。神様を知るために私たちは生まれてきて、家族の姿だけじゃ語り切れないので、さまざまな制度、国、友達、仕事、動物、自然・・・があるんですね。よく見ていると神様はあらゆるところにご自身を現わしておられるんですね。私はそう思っています。
ほんと神はあふれるほどに愛です。←これもまたデザインしたい